ディポログ・パブリック・トランスポート・ターミナル 深夜に目が覚めた。雷鳴が轟いていた。豪雨のようだが、部屋には窓がないので外の様子を確認できない。雷がホテルに落ちないように思ったことは覚えている。いつの間にか寝ていた。
6:00過ぎ、GVホテルをチェックアウトした。道路は濡れていた。
10分ほど歩いて、ディポログ・パブリック・トランスポート・ターミナルに着いた。
バスが何台か並んでいた。そのうちの2台がカガヤン・デ・オロ行きであったことに驚いた。
カガヤン・デ・オロ行きのバスは、今日の目的地であるイリガンを経由する。
最初にオザミスまで行き、そこでフェリーに乗る。フェリーを下りたあとはまたバスに乗る。乗り継ぐバスは路線バスになると思っていたが、カガヤン・デ・オロに行きのバスに乗るということは、バスごとフェリーに乗り込み、フェリーが対岸に着いてからもそのバスに乗っていくということである。時間は短縮できる。
2台のバスのうちの1台は昨日乗ったRural Transportのバスである。もう1台にはスーパー・ファイブという名称が付けられていた。Rural Transportのバスにはうんざりしていたのでスーパー・ファイブのバスに乗ることにした。
まずはオザミスまで スーパー・ファイブ・バスは定刻に出発した。
スーパー・ファイブ・バス/ディポログ・パブリック・トランスポート・ターミナル 6:30 → オザミス・インテグレィティッド・バス&ジプニー・ターミナル 14:30予想/料金265ペソ
バスはイピル・ディポログ・ハイウェイを走った。途中、町や集落は多くなかった。
バスはほとんど停車することなく田舎の風景のなかを快走した。
7:30、カランバ・インテグレィティッド・バスターミナルに入った。マーケットが併設されていた。
7:40、またバスターミナルに入った。おそらくPlandelという町のターミナルである。バスを下りるとき、フィリピン人は出発時刻を確認しない。フィリピンだけではなく、ほとんどの国の長距離バスで乗客はドライバーに出発時刻を確認しない。2年くらい前から私も尋ねなくなった。
バスターミナルの食堂で朝ご飯を食べた。ムスリムのイメージが濃いミンダナオ島で豚肉を食べることができた。豚の角煮はフィリピンの隠れた名物料理かもしれない。
Plandelのバスターミナルにいたとき大雨になったが、走り出してすぐ雨は止んだ。
9:10、ヒメネス・インテグレィティッド・バスターミナルに着いた。
バスはイリガン湾沿いを走ったが、海はあまり見えなかった。
9:50、オザミスの街の北側にある、オザミス・シテイ・インテグレィティッド・バス&ジプシー・ターミナルに入った。予想を上回るスピードでここまでやって来た。
10:10、バスは発車した。ここからフェリー乗り場に向かうはずである。
オザミス・フェリーターミナルで バスはオザミスの街なかを通過した。途中、大渋滞に引っ掛かった。
オザミスのフェリーターミナルに到着した。
乗客はすぐに下ろされた。ディポログ・パブリック・トランスポート・ターミナルで支払った265ペソのなかに乗船料金と港湾使用料は含まれていなかった。2ヶ所で料金を払い、乗船名簿に記入した。列の流れに沿って手続きを行えば、フェリー乗り場である埠頭に出る仕組みになっている。
埠頭ではひとつ前のフェリーが出航しようとしていた。埠頭の後ろの広場に乗ってきたスーパー・ファイブ・バスが見えた。
フィリピンで、バスといっしょにフェリーに乗ったことが3回ある。
マクタン島(セブ)からオランゴ島への航路では、乗客がバスに乗ったままフェリーに乗り込んだ。
スリガオ(ミンダナオ島)・リロアン(レイテ島)間、アレン(サマール島)・マトノグ(ルソン島)間では、バスと人は分かれて乗船させられた。両区間ともに、チケットはバス会社が一括購入して乗客に配られた(別々に購入することもできる)。スリガオからリロアンに渡ったときは、私が先に徒歩で乗船し、乗っていたバスは全車両の最後の1台として船に乗り込んだ。このときは気が気ではなかった。リュックをバスのなかに置いていたからである。バスといっしょに行動できなかった場合、悲惨なことになる。自分が乗船したフェリーに、万が一バスが乗り込んでこなかった場合(そのフェリーの車搭載が満車で、1本あとのフェリーにバスが乗ってくる場合)、到着港でバスを待たなければならなくなる。1日4往復の航路では6時間待ちとなる。逆のケース(バスがフェリーで先に出てしまう)はまず考えられない。
オザミス港でバスがフェリーに乗り込んだのを見ていた。そのフェリーに乗ればよい。ところが車両の搭載を終えたフェリーはすぐに出港していった。あっという間である。そのフェリーに乗る予定だった人たちは唖然とした。
私の乗る予定のフェリーは100mほど進んだ海上に停泊した。その横を通り、別のフェリーが入港してきた。さらに埠頭に停まっていたフェリーが出港していった。
2隻の出入港を見送った。そのあと私の乗る(バスを乗せた)フェリーが再度、埠頭に接岸した。ややこしい。この港では同じ埠頭のなかで、車の乗り入れする場所と客の乗り降りする場所とは異なるのである。
もどってきたフェリーにバスの乗客たちが乗り込んだ。
スーパー・ファイブ・バス/オザミス港 11:00 → ムカス港 11:15/料金45ペソ(乗船料金40ペソ+港湾使用料5ペソ)
ムカスからイリガンまで 深く切れ込んだパンギル湾の対岸は見えていた。瀬戸内海のような内海の雰囲気がある。フィリピンが経済発展すればこの湾に橋が架かるだろう。しかしここはフィリピンの巨大な辺境、ミンダナオ島である。そうなるまでに時間はかかるだろう。
フェリーは15分ほどでムカス港に着いた。バスに乗車したのは、ムカス港に着く直前の、フェリーのなかである。乗客を乗せたスーパー・ファイブ・バスはフェリーを出て走り出した。
フィリピンの海を渡るバス旅は楽しいが、バスの乗降、フェリーの乗降、それぞれのチケットの購入などバス会社や港湾施設により異なるので気が抜けない。
ムカス港を出たバスはすぐにムカス・インテグレィティッド・バスターミナルに入った。
スーパー・ファイブ・バス/ムカス・インテグレィティッド・バスターミナル 11:20頃 → イリガン・バス・ジプニー・ターミナル・サウスバウンド 13:10頃/ディポログからの料金265ペソ
ムカス・インテグレィティッド・バスターミナルを出たバスは60㎞離れたイリガンをめざして快走した。
イリガンに着いた。早ければ14:30頃に着くだろうと思っていた。13:00過ぎの到着は上出来である。
今日マラウィに行けるかもしれない。しかし今日行くとなれば、逆に時間は切迫してくる。
イリガンでホテル探し ジプニーで北に4㎞移動して、イリガン中心部で下車した。
ジプニー/イリガン・バス・ジプニー・ターミナル・サウスバウンド 13:20頃 → イリガン中心部 13:30頃/料金8ペソ
ブッキングドットコムでもっとも安い料金のホテルをグーグルマップのお気に入りとしてマーキングしていた。予約はしていなかった。その安いホテルを目指して歩きながら、途中にホテルがあれば交渉してみるつもりでいた。しかし歩く途中、1軒のホテルも見つけることもできなかった。
結局、マーキングしていたコジィインにチェックインした。レセプションにいたのは若い姉と弟だった。慌てて掃除をして部屋を開けてくれた。チェックインした部屋は悪くなかった。建物は古びていたが、リゾート・テイストのホテルである。
すぐにホテルを出た。来た道と異なる道を歩いて、イリガンを南北に走る幹線道路に出た。
道路の反対側にチョーキンがあった。食べている時間はほとんどないのだが、あまりに腹が減っていた。シャンハイルンピア(揚げ春巻き)はおそらくチョーキンのメニューのなかでは一番うまい。注文から配膳までの時間はおそらく一番長い。
チョーキンの前からジプニーに乗った。
ジプニー/イリガン中心部 14:30頃 → イリガン・バス・ジプニー・ターミナル・サウスバウンド 14:40頃/料金8ペソ
ディポログからのバスが到着したイリガン・バス・ジプニー・ターミナル・サウスバウンドにもどってきた。
マラウィに向かう マラウィ行きのトランスポートは発車する直前だった。
再びイリガン・バス・ジプニー・ターミナル・サウスバウンドにもどってきたものの、乗車するかどうかを少し迷った。空は真っ黒になっており強い雨になることは確実である。傘を持っていない。当初の予定では、マラウィ行きは明日である。だから明日に行けばいい。
ディポログから乗ったバスが予想を上回って早くイリガンに着いたことが予定の変更を可能にした。
思い切ってマラウィ行きのトランスポートに乗ることした。
「マラウィの戦い」について 「マラウィの戦い」とは、南ラナオ州マラウィ市でのフィリピン軍とISIS関連の過激派組織との戦いを指す。戦闘は2017年5月23日から始まり、10月23日のフィリピン政府による終結宣言によって終わった。
過激派組織とは、サラフィー・ジハード主義グループのマウテ・グループとアブ・サヤフを指す。
マウテ・グループとはISISに忠誠を誓った、2016年のダバオ市爆破事件の実行犯として考えられている武装組織のことである。
ISISの関連組織アブ・サヤフのリーダーのイスニロン・ハピロンが、マウテ・グループの過激派と会うためにマラウィに滞在しているという情報をフィリピン政府が掴んだ。
武力衝突は、フィリピン軍と警察の合同チームがハピロンを確保しようとしたために起こった。ハピロン側が軍と警察に対し発砲を始め、マウテ・グループに増援を求めたときに激しい銃撃戦が起きた。
マウテの過激派はキャンプ・ラナオを攻撃し、マラウィ市庁舎、ミンダナオ州立大学、病院及び市刑務所など都市の一部の建造物を占拠した。彼らはメインストリートを占領し、聖マリア教会、ニノイ・アキノ学校、ダンサラン・カレッジを放火した。またマラウィ大聖堂を攻撃し、神父と一部の教区民を人質に取った。
テロリストの一部は外国人であり、フィリピンに長期間滞在してマラウィのマウテ・グループを支援していた。彼らの主目的は南ラナオ州議会議事堂にISISの旗を掲げ、ISISの領土を宣言することであった。
一時期、マラウィ市民400~500人が戦闘地域に取り残された。脱出を試みた市民が処刑されたり、フィリピン軍の攻撃に対する「人間の盾」として使われ、強制労働に従事させられたりした。
激しい戦闘の末、リーダーのオマル・マウテとハピロンが死亡した。フィリピンはハピロンとマウテ兄弟の制圧に、米国はイスニロン・ハピロンの拘束に報奨金を提示していた。
戦闘が始まったとき、米国の支援を嫌ったドゥテルテ大統領がこの戦いを長引かせたといわれている。米国は直接軍事介入していないが、機関銃や手投げ弾発射装置など物資における支援だけでなく、過激派組織制圧のノウハウを提供した。それによりフィリピン政府軍は攻勢に転じた。
モスル(イラク)におけるISIS制圧と同じ構図である。米国はテロ対策としての各国への軍事的支援の手法を整えたように思える。
2017年10月17日にドゥテルテ大統領は、マラウィが解放されたと宣言した。10月23日には、マラウィでのテロリストとの戦いが終結したと発表された。
「マラウィの戦い」による死亡者数などを記しておく。
過激派 死亡者数974人 拘束者数 11人
政府軍 死亡者数165人 行方不明者数 1人 負傷者数1,400人
民間人 死亡者数 87人(うち40人は病気が原因)
マラウィを占拠した過激派戦闘員にはサウジアラビア、インドネシア、マレーシア、イエメン、ロシアのチェチェンの出身者がいた。
日本人にとってのマラウィと「マラウィの戦い」 日本人にとってイラクやシリアのISISは中東の遠い国の出来事である。ニュース番組で触れる機会はあっても、身近に感じることはない。それに比べれば、日本に滞在するフィリピン人が多く、在留邦人、日本人旅行者が増え経済協力を行っているフィリピンでの出来事のほうが日本人に取っつきやすいはずである。そうであるにもかかわらず、マラウィの報道はあまりに少なすぎた。マラウィを知っている日本人はほとんどいない。
おそらくミンダナオ島のムスリムがフィリピン全体から切り離されているからである。ダバオを除くミンダナオ島は日本人にとって意識と知識の圏外であり、圧倒的多数のキリスト教系フィリピン人にとってもどこか遠い南の島の戦闘だったのである。多くのフィリピン人はミンダナオ島に行くなと言い、自分たちも行かない。
そんななか、2017年に2回に分けて「マラウィの戦い」の特集を組んだ『報道特集』(TBSテレビ)はすばらしかった。これこそがジャーナリズムといっていい内容だった。マラウィに来てみようと思ったのはこの番組を見たからである。
マラウィに向かって トランスポート/イリガン・バス・ジプニー・ターミナル・サウスバウンド 15:00頃 → マラウィ 16:20頃/料金120ペソ
イリガンを出たトランスポートは山の中に入った。すぐに雨が降り出した。
道路は曲がりくねっていたが、道路状況に問題はなく、トランスポートはぐいぐい走った。
空は真っ暗になり雷鳴が聞こえた。雨はどんどん強くなっているように思われた。
豪雨のなかで見た途中の集落は小さく貧しかった。
チェックポイントは数ヶ所あった。チェックポイントはミンダナオ島にしかない。そのなかでもイリガン、マラウィ間のチェックポイントの多さは際立っていた。
チェックポイントのなかの3つほどに駐留している警察官がいた。しかしトランスポートは停車することなく走ることができた。あまりの大雨が彼らに仕事をさせなかったのかもしれない。
トランスポートのなかで 1時間20分ほど走ったトランスポートはマラウィの街に入った。
私はドライバー席の隣に座らされていた。定員が十数名の車内のほとんどはムスリムの女性だった。男は、ドライバー、私の横の男、私の3人だけだった。3人はドライバー席の横一列に座っていた。
出発したときから車内は静まりかえっており、会話をする者はいなかった。車内は異様に重苦しかった。車内の空気を支配していたのはムスリムの女たちの沈黙である。
雨が上がりつつあったマラウィの街の、スピードを落としたトランスポートのなかでドライバーは私に尋ねた。これが車内での最初の会話だったかもしれない。
どこで下りたいのか?
街の真ん中
この辺りが真ん中だ マラウィのどこに行きたいのか?
イリガンで動いていたグーグルマップのオフラインはマラウィではまったく役に立たなかった。地図は表示されていなかったが、画面には青いドット(位置情報)だけがあった。こうなっては誰かに尋ねてみるしかなかった。それは少なからず不謹慎なことと捉えられるかもしれなかった。第二次世界大戦の戦跡めぐりではない。戦闘の終結宣言が出てからまだ1年と11日しか経っていない。マラウィは民間人の死者が多数出た街である。
戦闘で破壊されたところに行きたい そこにはたぶん橋がある
1年ほど前に見た『報道特集』の内容を詳しく覚えているわけではなかった。マラウィの戦闘のイメージだけは鮮烈に記憶されているが、場所を特定できそうな具体的な映像としては、記憶のなかの「橋」だけである。明日行けばいいと思っていたので情報を再度検索する時間はなかった。もっとも検索したからといって、行きたい場所は出てこないだろう。
私が話したのは真横にいるドライバーにたいしてであるが、後部座席のムスリムの女たちから歓声のような声が上がった。「なぜ、そんなところに行くのか」という疑問と驚きの声である。1時間20分の重苦しかった緊張感は一気に溶けて、質問が相次いだ。
どこから来た?
日本から?
なんでマラウィに?
何しに? 仕事?
日本で何している?
ジャーナリスト?
ホテルに泊まるのか 紹介する ← すべてのホテル予約サイトにマラウィのホテル登録は1軒もない
ムスリムの女たちの会話が始まった。
戦闘のあった場所? 破壊された場所? どこだった? あなた知っている? あっちのほうよ
おそらくそんな会話である。ここはムスリムのマラナオ人が多く住む地域で、話されているのはマラナオ語であると思われた。マラナオ語の話者は115万人である。
トランスポートの向かう先は私の望む方向ではないようだ。ドライバーがいっしょに下りて、トライシクルを捕まえてくれた。
ドライバーから私を連れていく場所を聞き取ったトライシクルは私を乗せ、走り出した。たぶん「橋」のほうに行くのだろう。オフラインのグーグルマップはあいかわらず起動していない。
トライシクル/マラウィ中心部 16:30頃 → (RAPITAN)橋 16:40頃/料金30ペソ
マラウィを歩いた 雨が上がったマラウィのところどころに大きな水溜まりができていた。
橋を渡ったところでトライシクルを下ろされた。RAPITAN橋という名称らしい。橋の片方にチェックポイントがあった。警察が橋を管理していた。尋ねてみた。渡るのは自由だと言われた。
TOTO 便座ピン組品 パステルアイボリー TCH738YS#SC1 橋の真ん中でムスリムの女子高校生らしい数人が笑いながら自撮りをしていた。日本の女子高校生と何ら変わらない雰囲気だった。彼女たちが背景にしていたのは橋の反対側の坂の民家である。私の記憶では、そこは戦闘のあった場所であるように思えた。そうであるのなら、彼女たちが意図して戦闘のあった場所を背景に自撮りをしていたことになり、その気楽さは私と同程度である。
『報道特集』を録画し何度か観ていれば、この橋が戦闘の場所であったかどうかの判別は付いたはずだが、そうしておかなかったことを後悔した。映像の記憶だけではどこをどう歩いてよいのかわからない。
仕方ない。適当に街を歩くことにした。
RAPITAN橋を渡り、街の中心部に向けて歩いた。
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キャンプ・ラナオという場所はどうやら軍事施設らしい。大体の場所はわかったが、そこにいたる道は封鎖されていた。
マラウィは独特だった。
マラウィの人口は13万人である。同じ程度の人口を抱えるフィリピンの街はもう少し骨格が太く、中心部の商業施設はもっと充実している。ジョリビー、マクドナルド、チョーキン、イナサル、ケンタッキー・フライド・チキン、ミスタードーナツ、マーキュリー・ドラッグなどのチェーン店は1店もなかった。これは珍しいことである。
※帰国したあと、写真をチェックするとミスタードーナツの看板があった。小さな店先でドーナツが販売されていたのだろう。イートインスペースのあるミスタードーナツは都市部にしかない。
※4ヶ月後、旅日記をまとめようとしたとき、グーグルマップでinfiniteaを見つけた。これには驚いた。Infiniteaはフィリピンで最もお洒落な紅茶専門店である。
Amai Pakpakメディカルセンターは他の病院より優れているらしい。
通りを歩いている人は多かったが、店のサイズはどこも小さかった。
街全体が暗かったが、夕方になってようやく店に電気が点き始めた。街の全域に電気の使用制限が設けられていると思われる。フィリピンの田舎で停電は珍しいことではないが、電気の使用時間が限られている地域を歩いたのは初めてである。
フィリピン独特の底の抜けたような明るさはなかった。街全体が貧しいという印象は否めなかった。
夜が迫ってきた。街の北側にあるというマラウィ・シティ・インテグレィティッド・ターミナルをめざして歩いた。そこでイリガンへのトランスポートに乗る予定だったが、閉鎖されていた。
ターミナル跡から800mほど離れた道沿いにイリガン行きのトランスポートが停まっていた。そこはさっき歩いた場所だった。トランスポートはなかなか満席にならず40分ほど待たされた。帰りの料金は高く設定されていた。
トランスポート/マラウィ 18:50頃 → イリガン中心部 20:10頃/料金150ペソ
マラウィを十分に歩いたとはいえなかった。消化不良である。
ふと思った。マラウィに向かうトランスポートはムスリムの女性たちが埋めていた。もし彼女たちが下りるところまで乗っていき、いっしょに下りていたら、ムスリムの集落を覗くことができたかもしれない。
7日前にモスル(イラク)、2日前にバシラン島に行けなかった。それを考えると、チェックポイントで止められず今日マラウィに行くことができたのは、失敗した2日に比べればましだったわけである。それだけが慰めである。
イリガンにもどってきた トランスポートはイリガン・バス・ジプニー・ターミナル・サウスバウンドで停車した。そのあとイリガンの中心部に向けて走ってくれたのはラッキーだった。イリガン中心部で下りることができた。
イリガンの地元の食堂で夜ご飯。
夜のイリガンを歩いてみた。
路上の市場は夜も活気があったが、何も感じなかった。私の緊張感がマラウィで切れていたからである。